自分の強さと向き合う

Googleの入社エントリが流行した。
東大の入学式の祝辞が耳目を集めた。

僕の学歴は良いとは言えない。というか大卒ですらない。最終学歴は情報系の専門学校卒業だ。
僕の勤務先はGoogleではない。NTTデータでも好調なベンチャー企業でもない。単なる零細の開発会社だ。

自分は小市民であるし、俗物であるからやっぱり東大生に送られた「環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」という言葉や ぼくはこうやって(8年前)Googleに入った - アスペ日記この方の

ぼくがGoogleに入れたのは、遺伝子のおかげじゃなかったら何なんだ?

といった指摘に痛快さを感じてしまった。スカッとジャパンみたいな、見たことないけど。

しかし。
恵まれた環境にいるのは本当に東大生やGoogle社員だけだろうか。
自分は?
確かに自分は凄い人間ではない。冒頭に書いたように学歴があるわけでも、給与が特別多いわけでもない。知能だって平均的だろう。処理能力が特別高いわけでもない。今後何者かになれるとも思わない。
しかし一応エンジニアとして人並み程度の給料をもらえる立場であるし、ささやかながら自分の作ったアプリにレビューやブックマークを付けてもらえるようなものを作ったこともある。
社会の凄い人達は「遺伝子や環境のおかげ」で、僕は可哀想にも凡庸に生まれてしまったからそうではないと?

これは個人的な決意

自分の「強さ」を認めるのは勇気が必要で、とても、難しいものだなと思う。
自分はそんなに能力を肯定されたりしないような感じで生きてきたせいもあるのか、自分の強さについて考えるとそれを否定し、自分を憐れむ言葉がいくらでも浮かんでくる。
CSもよく知らない、英語もできない、ネットワークもよく知らない、コミュニケーション能力が低いからこれ以上伸びしろがないだとか。

けれどもやっぱり、ぼく程度の人間であろうと今この時点の生活にいることは「遺伝子や環境のおかげ」に他ならないと思う。
そして、それは社会の一部の凄い人達「だけ」がノブレスオブリージュ的に持つべきものではなくて、何か一つでもできることがあると思える人は持つべきものではないかな。これは早いとか遅いとかの問題はなくて、準備ができた人からでいい。